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6-3.鉄剣に刻まれた「ワタカケル大王 (雄略天皇)」銘 [6.統一国家倭国、大和王権の発展]

-3.鉄剣に刻まれた「ワタカケル大王 (雄略天皇)」銘

 

F-3.稲荷山鉄剣.png雄略天皇の和名は『古事記』が「大長谷若建命」、『日本書紀』が「大泊瀬幼武尊」で、「おおはつせわかたけるのみこと」と同じである。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌には「獲加多支鹵大王」、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌「獲〇〇〇鹵大王」の銘があり、両者共に「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。稲荷山古墳の鉄剣の金象嵌には「辛亥の年7月中に記す」との銘があり、「辛亥」は471年とされている。「縮900年表」によると雄略天皇の治世は、464年から486年である。

 

F-4.稲荷山・江田船山古墳.png埼玉県行田市にある稲荷山古墳の墳頂には、粘土槨と礫槨の埋葬施設があり、粘土槨は盗掘を受けていたが、礫槨から金象嵌鉄剣や挂甲・馬具が出土している。墳丘にある円筒埴輪はⅤ式で、人物埴輪も出土しており、造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。稲荷山古墳の築造年代は、須恵器のTK23とTK47の共存から470~489年と定めることが出来る。

 

熊本県玉名郡の江田船山古墳からは、横口家形石棺・円筒埴輪Ⅴ式・馬形埴輪・横矧板革綴短甲・横矧板鋲留短甲・馬具・須恵器が出土している。江田船山古墳の築造年代は、消滅する要素としての「横矧板革綴短甲」と「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから、465~475年と定めることが出来る。稲荷山古墳と江田船山古墳の築造年代は雄略天皇の時代である。

 

 

宋書倭国伝のなかで、最も注目に値する記載内容は、478年倭王武(雄略天皇)が宋の孝武帝に奉じた上表文であろう。「皇帝の册封を受けたわが国は、中国から遠く偏って、外臣としてその藩屛となっている国であります。昔からわが先祖は、みずから甲胄をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく、東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国、北のかた海を渡って平らげること九五国に及び、強大な一国家をつくり上げました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広く広がり、中国の威ははるか遠くに及ぶようになりました。」

 

F-5.中期前方後円墳分布.png478年と言えば、古墳中期の終り、後期の始まりである。図は古墳時代の前期・中期の前方後円()墳の分布図である。前方後円墳が本州・四国・九州では、北東北(青森・秋田・岩手)・高知以外は、築造されている。倭王武(雄略天皇)の上表文にある「東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国」ように、倭国は古墳時代中期末にはほぼ全国を統一していた様子がうかがわれる


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6-2.好太王碑に刻まれた倭国の王は仁徳天皇 [6.統一国家倭国、大和王権の発展]


-2.好太王碑に刻まれた倭国の王は仁徳天皇 



日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが3世紀前半であり、倭の五王が中国の南朝と好を結んだのが5世紀である。この間、倭国の名が登場するのは、『晋書』武帝紀の「泰始二年(266年)、倭人来たり方物を献ず。」と、安帝紀の「義熙九年(413年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」の記述のみであり、この約150年間は「空白の世紀」と呼ばれている。



F-2.好太王碑.png中国の歴史に倭国の名が登場しない、空白の150年間の間で、古代朝鮮の好太王碑に倭国の名が登場してくる。好太王碑は現在の中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域の江畔、その昔高句麗の王都、丸都城のあった地域である。この碑は高句麗の好太王の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。



碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守(はかもり)に関するものである。倭国に関する記述があるのは第二段で、好太王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。一番初めは「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)に、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅をし、臣民にした。」である。 



「以辛卯年来渡海」については、従来「辛卯の年に海を渡って来て」と解釈されていたが、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が西嶋定生氏によりとなえられた。碑文では好太王の元号「永楽〇年」と干支が記載しており、好太王の即位した永楽元年が391年(辛卯)である。これからすると、「以辛卯年来渡海」については、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が正しいと思われる。 



『三国史記』百済本記によると、百済は阿華王が即位した392年から395年にかけて百済は高句麗の好太王に大敗し北部の領地を奪われている。そして397年には、倭国と好を結び太子の晪支(直支)を人質としたとある。『書紀』応神8年の記事には、「百済記に述べているのは、阿花王立って貴国(倭国)に無礼をした。それで・・・の地を奪われた。このため王子直支を天朝(天皇)に遣わして、先王の好を修交した。」とある。「無礼」とは高句麗に敗れたことかも知れない。応神8年は『書紀』の編年に120年プラスした397年で、「縮900年表」では仁徳朝にあたる。そして、「好太王碑文」には、399年に「百済は誓いを破って倭と和通」とある。『三国史記』『書紀』「好太王碑文」はピッタリ一致している。

一方、『三国史記』新羅本記によると、393年に「倭軍が金城を包囲したが、倭軍を大敗させた」とあり、401年に「高句麗の人質になっていた実聖が帰国した。」とあり、「402年に「倭国と国交を結び、奈勿王の王子未斯欣を人質とした。」とある。
『書紀』仁徳17年(397年)には「新羅の朝貢なかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。」とある。「好太王碑文」には399年に「新羅の使いが倭が新羅を壊滅させたと救援を請願した。」とあり、400年に「歩騎5万を遣わして新羅を救援。倭はあたり一帯に満ちていたが、官軍が到着する時には退却した。」とある。『三国史記』『書紀』「好太王碑文」は、年次には若干の違いがあるが、新羅が倭国と高句麗に対して、懐柔策を講じていた様子が窺がわれる。「縮900年表」では、仁徳天皇の在位は381年から431年であり、高句麗の好太王の在位は391年から413年である。好太王と仁徳天皇は百済と新羅の覇権をめぐって、対峙してきたのであろう。好太王碑文と『三国史記』『書紀』の記事がそれを示している。



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6-1.『宋書』倭国伝の「倭の五王」 [6.統一国家倭国、大和王権の発展]

-1.『宋書』倭国伝の「倭の五王」

 

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。

 

倭の五王については、「宋書」より後に書かれた「梁書」「南斉書」「晋書」にも記載されてあるが、宋書の倭国伝の、資料的価値が一番高いと考えられている。この「倭の五王に」ついての研究は、江戸時代の松下見林・新井白石・本居宣長に始まり、明治・大正・昭和の多数の学者が「魏志倭人伝」と同様「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。倭の五王の比定は、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっているが、この通説にも大きな問題が残っており、今にいたっても定説がないという状態である。

 

その問題とは、『宋書』倭国伝には「讃死して弟珍立つ、使いを遣はして貢献す。」とあり、「讃」の弟が「珍」となっている。「讚」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇とした時、『日本書紀』『古事記』の記述では仁徳天皇の息子が反正天皇となっているので、「讃」と「珍」の関係が『宋書』と記紀で齟齬が起こることである。これに関しては、私は次のように考える。反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が即位した。」と奏上した。宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は認知しておらず、兄の前王は讃と理解し、「讃死して弟珍立つ」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」となったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していなかったことによる。

 

F-1.倭の五王.png私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。表を見れば一目瞭然で、これは古代史解明の快挙であると自負している。また、「縮900年表」の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇の崩御年は、表に示すように『古事記』崩御年プラス5年とほぼ同じ(違っても1年)で、『宋書』倭国伝とピッタリ一致している。「縮900年表」の精緻なことが証明されている。


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5-10.前期古墳の時代には統一国家の倭国は成立していた [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-10.前期古墳の時代には統一国家の倭国は成立していた

 

E-17.前期前方後円墳.png大和王権の権威の象徴は、考古学からみると前方後円墳(前方後方墳含む)である。私は、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑などの新しい技術が導入されている。 古墳時代前期のみに出土する遺物(数点の例外を除き)は、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石・合子・琴柱)、筒形・巴形銅器、割竹形石棺、特殊器台・器形埴輪・底部穿孔壺・二重口縁壺、方形板・竪矧板革綴短甲、銅鏃である。これらの指標を基に、全国の前期前方後円墳の分布を規模別にE-17に示した。

 

E-18.三角縁鏡と三種神器.png

古墳前期末の前方後円墳の分布と三角縁神獣鏡・三種の神器(鏡・剣・勾玉のセット)が出土した前期古墳の分布を比較すると、ほぼ同じであることが分かる。前方後円墳が大和王権の象徴とすると、三角縁神獣鏡と三種の神器も大和王権の象徴であったのであろう。三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているが、古墳から出土したことが確認されているもののほとんどが前期古墳からであり、前期古墳の指標の一つとなっている。島根県の神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡には「景初3年(239年)」の銘があり、群馬県の蟹沢古墳・兵庫県の森尾古墳・山口県の御家老屋敷古墳出土の三角縁神獣鏡には、「正始元年(240年)」の銘があり、邪馬台国と大和王権が結びついているのはあきらかである。

 

『書紀』には、三種の神器が大和王権への忠誠を示す印であった話が記載されている。景行12年(308年)の記事には、景行天皇が熊襲を征伐するため筑紫に向かったとき、周防の娑麼(山口県佐波)で、その国の首長が船の舳に立てた賢木に八握剣・八咫鏡・八坂瓊勾玉を飾り天皇に参じている。同様のことが、仲哀8年(345年)、仲哀天皇が筑紫を巡幸されたとき、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手は、船の舳に立てた賢木に白銅鏡・十握剣・八坂瓊勾玉を飾り、天皇をお迎えしている。記紀の神話において、天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊に三種の神器、八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉を授けている。津田左右吉氏は、「神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。」と唱えているが、三種の神器の分布は記紀の神話が古墳時代前期末には伝承され、大和王権と繋がっていることを示している。

 

E-19.前期前方後円墳分布.png

大和王権の象徴である前方後円墳の古墳時代中期末の分布(赤色)と前期末(緑色)の分布を比較すると、その分布はほぼ同じである。このことより、統一倭国は古墳時代前期末には成立していたことが分かる。私は、古墳時代中期の始まりを380年としている。「縮900年表」では、応神天皇の時代は354年~378年であり、応神天皇の時代の終りには大和王権は全国(除く東北北部)を支配して、統一国家の倭国を形成していたと考えられる。

 


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5-9.武内宿禰は統一国家誕生の立役者 [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-9.武内宿禰は統一国家誕生の立役者

 

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれており、武内宿禰が仁徳朝に存命していた表現となっている。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、長寿のたとえに武内宿禰を引き合いに出したのであり、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

 神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と武內宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、久氐を遣わしたのは371年となる。百済の肖古王の治世は346~375年であり、「縮900年表」では応神天皇の治世は354~378年である。百済の肖古王が応神天皇に久氐を遣わし371年に朝貢したことは史実であろう。石上神宮の七枝刀の銘文がそれを証明している。神功皇后が存命であったかどうか疑わしい面もあるが、この時の応神天皇の年齢が25歳頃であることからすれば、武內宿禰は大臣として371年頃に生存していたと考えられる。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

E-16.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。室宮山古墳の古墳年代は三角板革綴短甲(350~470年)と埴輪III式(340~380年)から350~380年である。

 

武内宿禰は371〜380年に葬られたと思われ、最高に長生きされても79歳である。武内宿禰は実在し、空白の150年の半分を生きぬき、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え、大臣として大和王権を支え、統一国家を作り上げた立役者であったと考える。明治22年(1889)5月1日から昭和33年(1958)10月1日まで、日本銀行発行の壱圓(一円)札に武内宿禰の肖像が使われていた。歴史上の人物として、武内宿禰の肖像は一番長く使われた紙幣だそうだ。武内宿禰を伝説上の人物としてではなく、歴史上の人物として再評価される日がいつか来ると思っている。


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5-8.応神天皇は製鉄(製錬を伴なう)技術を取り入れた [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]


-8.応神天皇は製鉄(製錬を伴なう)技術を取り入れた

百済の肖子王が372年に七枝刀を応神天皇に献上したとき、その使人の久氐は「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。」と口上している。このとき、倭国は百済で製錬を伴なう製鉄が行われていることを知ったのであろう。当時、倭国が最も手に入れたかつた技術の一つが、製煉を伴なう製鉄の技術であった。応神天皇は百済の肖古王に製鉄技術者の派遣を要請したと推察する。それによって遣わされたのが韓鍛()の手人の卓素であった。その時期は、肖古王が応神天皇に七支刀を供した372年から、肖古王が薨去した375年の間であったと思われる。



応神陵古墳(誉田御廟山古墳)は墳長420mの前方後円墳で、全国第2位の規模である。築造年代は円筒埴輪Ⅳ式(380~480ねん)の時代だが、外堤外側から出土した須恵器TK73(390~410年)により、その年代が絞り込める。応神陵古墳の陪塚の一つだと確実視されているアリ山古墳は一辺45mの方墳で、応神陵古墳の二重濠外堤に接して築かれており、おびただしい量の鉄器(鉄斧134個、蕨手刀子151個、鉄鑿90個、鉄鎌201個、鉄鍬先49個、鈎状鉄器412本等)が出土している。これらの鉄器は、国内で製鉄された鉄素材から作られたものではないかと想像する。


岡山県の造山古墳周辺地域にある高塚遺跡(岡山市)
から製鉄作業における鉄滓が沢山出土している。中でも鉄鉱石から鉄を取り出すときに発生する製煉滓が出土したフロヤ区の竪穴住居47と、炉跡があった竪穴住居28からは、土師器甕B1類が出土している。この甕B1類は、大庭寺遺跡TG232号窯灰原の下層の土師器に類似しており、TG232号に近い時期と思われると『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』に記載してある。高塚遺跡で製錬を伴なう製鉄が始まったのはTG232式(380~390年)と考えられる。高塚遺跡の製鉄遺構から、製鉄が始まったのは古墳時代中期の始まり、380年頃としたが、卓素が我が国に到来した368年頃と一致する。卓素が我が国に製鉄技術を伝えたと考える。我国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、四世紀後葉の古墳時代中期の始まり(円筒埴輪Ⅳ式・須恵器の登場)の時期である。



 


E-15.高塚フロヤ古墳時代遺構.png


因みに、高塚遺跡から2kmにある造山古墳は、墳長360mの前方後円墳で全国第4位の規模である。造山古墳からは円筒埴輪式(340~380年)と埴輪式(380~470年)が出土しており、そぼ築造は埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変わった380年前後と考える。巨大な前方後円墳・造山古墳が築造された頃、その傍の高塚遺跡で我国初めての製鉄が行われていた。古墳時代中期の始まりに、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。そして、当時倭国が最も欲しがっていたと推察される製錬を伴なう製鉄も、古墳墳中期の始まりに登場しているとすれば、大きな時代のうねりを感じる。



 



 



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5-7.応神天皇は百済肖古王より新しい技術を導入 [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-7.応神天皇は百済肖古王より新しい技術を導入

 

E-13.国宝七支刀.png奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。一般的には次のように読み下している。表「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。裏「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」七支刀が製作され倭た年は、「泰和4年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はなく、東晋の太和4年(369年)であろうと言われている。朝鮮の正史『三国史記』では、百済の肖古王(346~375年)の息子は「仇首王」である。

 

神功52年に、「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」とある。神功52年は、『書紀』の編年に120年プラスした372年である。肖古王の孫は「枕流王」であり、石上神宮の七支刀は百済の肖古王(346~375年)が倭国王に献上したものであることが分かる。

 

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。

 

一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

「縮900年表」では、百済の肖古王が良馬2匹を献上した応神15年は368年にあたる。『三国史記』によると、368年に百済は新羅に良馬2匹を献上したとある。『書紀』には「367年(神功47年)、百済王は久氐を倭国に遣す。貢物を新羅が奪う。」とあり、「369年(神功49年)、倭国は新羅を破り七ヶ国平定。躭羅を百済に与える。」とある。百済の肖古王は新羅には懐柔策を取り、倭国には後ろ盾となって、新羅と戦うことを願ったのであろう。その作戦はみごと的中した。百済の肖古王は応神天皇に、368年に良馬2匹を献上し、372年に七枝刀を献上した。

 

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 E-14.応神天皇陵と鞍金具.png



『三国史記』では、肖古王の在位は346年から375年、「縮900年表」では応神天皇の在位は354年から378年である。倭国と百済の交流が始まった366年から肖古王が薨去した9年間に、応神天皇は伽耶から窖窯・須恵器を、百済の肖古王から馬具・鋲留短甲・製鉄の新しい技術を導入した。そして、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石)、筒形・巴形銅器の古来の文化を捨て去って、新しい時代を築いたのである。私は、古墳時代中期の始まりを380年としている。


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5-6.神功皇后は実在し、新羅に攻め込んだのは史実 [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-6.神功皇后は実在し、新羅に攻め込んだのは史実

 

『古事記』『日本書紀』の歴史学としての研究は、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まり明治から昭和の多くの学者によりなされた。なかでも、大正時代早稲田大学教授の津田左右吉氏は、記紀の緻密な分析を行い、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から応神天皇までは史実かどうか疑わしいととなえた。満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著書に対しても皇室の権威を冒涜するものと圧迫が加えられた。第二次大戦後、津田氏の説は華々しく蘇り、多くの学者の支持を受け史学会の常識となり、さらに「推古朝以前は歴史の対象ではない」と、記紀の記載した歴史は葬りさられてしまった。

 

 『書紀』には、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。津田氏は『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定している。

 

E-12.中原高句麗碑.png4世紀末から5世紀の朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは、中国・韓国・日本の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。 「寐錦」が新羅王を表すということを中国・韓国・日本の歴史学者が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高句麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。また、1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。 

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

「縮900年表」で、神功皇后が新羅に攻め込んだのは、仲哀天皇が崩御された年の346年である。『三国史記』新羅本紀346年、「倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。さらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。・・・門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食料が亡くなり退却しようとしたので、追撃し敗走させた。」とある。戦いの勝敗は『書紀』と『三国史記』では反対であるが、倭軍が新羅の王都・金城に攻め込んだというのは同じである。神功皇后が新羅に攻め込だのは史実である。


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5-5.景行天皇の時代に統一国家大和王権の基盤が出来上がる [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-5.景行天皇の時代に統一国家大和王権の基盤が出来上がる

 

景行55年(329年)、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至って病で亡くなった。東国の人民は王の来られなことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。」とある。「春日の穴咋邑」は、奈良市横井にある穴栗神社の地であるとの説もあるが、この地では彦狭島王は東国の任地に旅立っていないことになり、奈良と群馬では、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは作り話になる。

 

長野県佐久市春日には、彦狭島王が亡くなった「春日の穴咋邑」ではないかとの伝承がある。佐久市春日は昔は軽井沢町と同じ北佐久郡に属する春日村であった。律令制度が整備 される以前の原初的な東山道は「古東山道」と呼ばれている。春日村は古東山道のルート上にあり、軽井沢町の入山峠を経て群馬県高崎市に向かう。彦狭島王が佐久市春日で亡くなったのであれば、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは真実味を帯びてくる。

 

E-10.元島名将軍塚古墳.png群馬県高崎市元島名町に島名神社がある。この神社は墳丘全長95メートルの前方後方墳の将軍塚古墳の前方部頂上に鎮座している。この神社の創立年月は不詳であるが、祭神は彦狭島王である。将軍塚古墳からは石釧(270~370年)と底部穿孔壺(270~360年)が出土しており、年代は270~360年である。年代的には将軍塚古墳が彦狭島王の墓という可能性を残すばかりか、祖父豊城命の墓と考えられる前橋八幡山古墳と同じ前方後方墳であることに興味が沸く。『書紀』景行55年の彦狭島王の話も史実と思われる。

 

『書紀』は「彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられた」と記載している。「東山道十五国」はどの地域なのであろうか。律令時代の東山道は、本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。「2-8.女王卑弥呼を共立した国々」では、魏志倭人伝に記載された30ヶ国が、銅剣・銅矛文化圏にある先代旧事本紀に記載された国造と一致した。東山道にある先代旧事本紀に記載された近江国から陸奥国までの国造は20ヶ国、近江の2ヶ国と成務朝より後に定められた国造3ヶ国を除くと、東山道は15ヶ国となり『書紀』の記載と一致する。

 

 E-11.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。

入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、珠文鏡(310~570年)と二重口縁壷(270~370年)から入の沢遺跡の年代を310年〜370年と割り出した。入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったのであろう。景行天皇(304~334年)の時代に大和王権の覇権は、北東北3県(青森・秋田・岩手)を除く範囲まで及んでいた証拠である。

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5-4.日本武尊の東征は史実 [5. 統一国家倭国、大和王権の成立]

-4.日本武尊の東征は史実

 

景行天皇は景行4年(307年)に美濃に行幸し、景行12年(308年)に熊襲が背いた筑紫とに向かった。襲の国を平らげると筑紫の国を巡行し 、景行19年(315年)に都に帰っている。そして、景行25年(317年)に武内宿禰を遣わして、北陸・東方の地形、人民の様子を視察させている。武内宿禰は2年後に帰り東国の蝦夷について報告し、土地は肥えており広大であると攻略することを勧めている。景行27年(319年)に熊襲が背き辺境を侵したので次男の日本武尊を筑紫に遣わし、熊襲を討たせている。翌年、日本武尊は熊襲を平らげたことを奏上した。

 

 

E-9.日本武尊東征経路.png景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、日本武尊は征夷の将軍に任じられた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。

 

陸奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。

 

宮城県の大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。これらの古墳からは、底部穿孔(270~360年)の二重口縁壺(270~370年)が出土しており、古墳年代は270~360年である。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいる。これは日本武尊の東征が物語化された面はあるが、史実であることを示している。


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